*心脳問題の基礎1~77の1*その360*知性,論理,思考,意味,イメージ,本質,質,味わい,価値,心,意識,生物,社会,国家,自然,世界,宇宙,などの研究*
*心脳問題の基礎1~77の1*その360*知性,論理,思考,意味,イメージ,本質,質,味わい,価値,心,意識,生物,社会,国家,自然,世界,宇宙,などの研究*
まず、意識について。
意識の定義;複数の定義がある。
要検証のものもある。
「意識」をはっきりと定義しておかないと、コミュニケーションにおいて、さまざまな誤解や対立、混乱が生じると思われます。
定義1;医学的に、意識がある、という場合の意識、にもっとも近く、意識し感じ味わうだけの性質・機能であって、人間において一生変化しないものであって、例えれば、コンピュータのモニタの機能に似ている意識。
別名を、味わいモニタ、とするのも妥当でしょう。
意識の器(ハードウェア)はモニタで例えられる。
これは要検証(つまり、現実がそうなっている可能性があるので、検証することができ、そうだと検証されたら、この定義は絶対にはずせない、用いなくてはならない、ということです)。
この定義の「意識」だけに、いつも自分がいるのです。
この定義の「意識」以外には、自分という意識はどこにもないのです。心にも自分という意識はありません(定義にもよる。要検証)。
注)モニタでの例えについての解説;
モニタの映像を映し出す機能・働きが「意識」の例えであり、
モニタの映像を表現する・示しだす画面そのものは「意識の器」の例えであり、
モニタが「意識のハードウェア」の例えであり(ただし、モニタには例えとして、意識のハードウェアにない部分・部品・装置がついている。よって、意識の器=意識のハードウェアである)、
ほかのモニタと区別されるというモニタ画面の個別性を含めた機能・働きが「意識の主体」であり、
モニタ画面のエネルギーの状態が「意識内容の波動パターン」であり、
モニタ画面の映像そのものが「意識内容」である。
(初出の単語・概念の解説は後にでてきます)。
注)この定義は、こういった方面における、最重要な定義のひとつです。
この定義は、脳の分業(脳における機能の分業)、人間における知的・情報的・形而上的活動(=形而上的情報活動)の分業、などに着目することからも導きだされます。
つまり、脳は分業になっていて、脳に対応している意識以外の部分を欠いても意識は変わらずに在る、ということからもそういえる、ということです。
注)この定義は、「意識的」という概念・単語から遠く離れている。というより、対極にあると言った方が正確でしょう。端的にいうと、正反対の大きな要素をそれぞれがもっている。つまり、この定義の「意識」は能動性・知的操作性ゼロであって、「意識的」の意識は、能動性・知的操作性100パーセントである。
定義の必要性がよくわかる(と思います)。
他にも、認識、自覚、認知、知覚、その他、などの概念・単語にも注意深く接する必要があるでしょう。
注)人間において一生変わらないものとしては、この意識と性別しかない(性転換のケースは除く)。
ここは非常に重要です。
それを考えて実感してみてください。考えて実感できるはずです。繰り返すと、人間において一生変わらないものとしては、その意識と性別しかない(性転換は除く)のです。
さて、なにがその不変を保つのか。
それは、意識・意識の器・意識の主体です(大本は意識の器)。
そのほかのものはすべて変化していく。形而上的なものも形而下的なものもすべて変わっていく。思考力、記憶、思想、環境・境遇によって形成されたもの、性格、性質、能力、実力、認識力、感情、すがた形(見分けはつくことが多いが)、周りの人たちとの関係、経験、今までの実績、その他、などすべては変わっていく。
脳も種々に変化していくし、代謝して7年(?)とかで、脳の構成要素たちはすべて入れ替わってしまうことになるけれど、「自分という意識」は変わらない。
自分を自分だと感じるのは、記憶(の継続)、記憶による現在までのさまざまなことの確認(自分のすがた形・境遇・今の状態・今までの経験、周りの人たちとの関係の確認、その他)である、というのは確かです。
ただし、それらは心的内容~意識内容であって、その心的内容が他人の意識の主体に送り込まれたら、その考え方・普通の考え方でいくと、自分はその他人になってしまうのです。ここはわかりにくいところですが。
意識の主体(器)の例えであるモニタ(コンピュータの)にも記憶や思考回路などはついていません。
意識と意識内容は区別されるのです。自分が自分であるのは、最も根源のところで、心的内容~意識内容によるのではありません。最も根源のところで、自分という意識の主体(器)によるのです。
その意識の主体(器)こそが自分であり、それが一生変わらない自分を保つというか自分なのです。そこにしか自分はいないのです。
注)日本語の意識、というのは、心・考え(意)を知る(識)、といった意味であって、心のモニタ、という感じの意味・概念になっています(外国語については知りませんが)。
定義2;認識する力や思考力や感情機能を含めて、心で知性的操作・情報処理(=形而上的情報処理)を行う、という機能の実態・実体(あるいは加えることの、定義1の意識を加えた実態・実体)。
実はこれは、心の定義のひとつである(定義する立場によって変わる。定義のし方によって変わる。これを意識と定義している方々がいるので、ここに挙げる。これを意識と定義すると、心という単語はいらなくなる。既にある単語を活用するとすれば、もっともふさわしい概念・実態・実体にその単語で名前づけをするしかない)。
この定義は、「意識的」という表現にかなり対応している。
この検証の必要性は小さいと思われる。
そのハードウェア(器)は、心のそれ(後述)と同じ。
(私はこれを心と呼ぶ)
定義3;定義2に定義1の意識も含めたところの意識。
この検証の必要性は小さいと思われる。
(私はこれはふたつに分ける。定義1と定義2)
定義4;気持ちや考え方の傾向・心の状態・心のもち方といったような意味の意識。目的意識、はここに入る。
(私はこれを心の傾向と呼ぶ)
定義5;定義2、または定義2+定義3、あるいは定義2+定義3+定義4に、意識内容(後述)を加えたところの意識。
意識と意識内容は区別されるので、この定義はこの定義を望む方々のためのものです(定義1以外はすべてそうです)。
定義6;知的操作感、あるいは加えることのその実態(知的操作感、またはその実態、あるいはそれら両者)。
この定義は、「意識的」という表現にかなり対応している。
これは心的内容または意識内容の一種である。
定義7;その他。
注)意識、意識内容、意識の器、はそれぞれ区別されます。
ここは非常に重要です。
心、クオリア、についても同じような注意が必要です。
それらを一緒くたにすると、コミュニケーションにおいて、誤解、衝突、混乱などが起きます。
意識のハードウェアの定義
意識の定義の中に書いてあります。
必要なら全部書きますが。
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(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)
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